2020年の終わりに

2021年に恋煩い💛

 どうもー。沖縄は珍しく晴れ、光爾(ひかりに)です。

 明日までは晴れ。明後日からは雨。2020年12月の沖縄は「ほぼ雨」でした。コインランドリーは相当儲かったことでしょう。わたしも始めようかしら。ちょっとカネオくんに聞いてみようかしら。笑

 さて、今日は12月25日でクリスマスですが、今年始まったこの「ものまうす」の年内更新は、今日で締めておきたいと思います。

 今年もいろいろなことがありましたが、右を見ても左を見ても「コロコロコミックコロナ」ばかりでしたね。わたしも何度取り上げたことか。

 しかし今年も、ほんとうにたくさんの著名人がお亡くなりになりました。

 時代の顔になった方々が多く、単なる年越しという意味ではなく、本当に時代は変わっていくのだなあと感じています。

 偉い人が好き放題やっていると、それを国民が流していると、国全体がバカになる。のだと考えますが、わたくし個人にできることも限られておりますので、まずは自分の身近なところから頑張ってみますか。

 珍しくそんな気持ちに駆られております。

 これ、「本気になる」とかならないとか、そういうことですよね。

 どうか自分自身が「貝沼くん(分かる人だけ分かればいい)」ではなく、もう少し地力ある人間であることを祈ります。ああいう人、割と身近にいそうですからね。どうかわたしはもう少し地力ある人間でありますように。

 できることを増やしていって、たどり着きたい場所がある。

 そうだ、この連休を有効に使おう!

 あ。貝沼くんみたいな匂いがしてきた。笑

 どなたさまも、どうぞお健やかに年を越されますように。

 新しき年もお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。

 そして。

 メリークリスマス!

十八言目 アイツは優秀だ。

俺のイエスマンに育てよう。

どうも。沖縄は長い雨、光爾(ひかりに)です。

 毎日毎日ほぼ雨が降っており、洗濯物が干せぬ。近所のコインランドリーの経営者は笑いが止まらないだろうなぁ。と、ぼやいたりしています。

 先日、あるエラい人が申しました。

「アイツは優秀だ。見どころがある。」

わたしは思いました。

「アンタは何様だ」

どうもわたしは、年上の方には意地悪になってしまうところがあります。

その理由を探して自分のなかに旅に出てみたところ、若いころに出会った当時のボスが何というか知恵のある方で、それだけではなく、身体もでかい(太い?)が人間的な器の大きさのある方で、どうもそのボスと、その後に出会ったいろいろな方を比較してしまうクセがあるのだということに気がつきました。

 考えれば当時のボスは、わたしをドライバーに指名しながら、たくさんの人物評を聞かせてくれたものです。いま会ったばかりの人もいれば、以前にお会いした人のことを思い出しながら「アイツは優秀だ」「アイツはイマイチだ」だけではなく、こういうところが良くて、こんな部分はイマイチだ。人間に求められるのは〇〇で、仕事としては〇〇な要素がほしいなどと、微に入り細を穿つような人物評で、実に多くの事を学ばせて頂きました。

 ご本人は「人生はマイナスから始まった成金」の自覚を持ち、「10代のアルバイト以外に人に使われたことはない」という学生ベンチャーの走りのような方でした。

 体形はともかく、こんな人になりたいと常から考えておりましたが、残念ながら似てきたのは体形だけのようです。

 いや、話が逸れました。

冒頭の「アイツは優秀だ」に「アンタは何様だ」の話なのですが、たとえばAさんがBさんを評価した時、それが当てになるか否かはAさんが近しくしている人たちを見れば分かりますよね。

 だいたいAさんがどんな能書きを垂れようが、仕事のできないイエスマンばかりを集めているようでは、Aさんの人物評など当てになるわけがない。なんならAさんと近くなろうとも思わない。評価されたくもない。そこまで0.2秒くらいの思考で「アンタは何様だ」になったわけです。

いろいろな人が「アイツは優秀だ」と言います。皆さん、その人の「優秀だ」がどういう意味か、当てになるかは、その人が近づけている人物、近しくしている人たちを見ると良いです。そして、イエスマンを集めている人には要注意。ということです。

 いやはや、昔懐かしいころを思い出しました。

 当時のボスは今や病に屠っているそうです。長年の酒食に祟られたかという話ですが、長生きして頂きたいと心から願います。

 詮無い話でありました。

十七言目 鬼滅の刃に乗っからないのに。

寄らば大樹の陰。

 どうも。気がつけば12月も10日で、ここ数回、同じ書き出しであることを少し恥じないでもない光爾(ひかりに)です。

 「鬼滅の刃」がコロナ世界を爆走中。もうすぐ「千と千尋の神隠し」を超えるかもしれないね。映画の興行収入で、何と300億円。いや、世界のトヨタの純利益に比べれば、大したことはありませんけどね。あちらは単位が「億じゃなく兆」ですし。

 しかし今回の「無限列車篇」はコミックスで言えば7・8巻。ということは最終23巻まで、あと何回映画に出来るんだ、というような皮算用を……今は計算していないでしょうね、制作サイドも。

 なぜなら、いわゆるマスメディアが存分に食い尽くして、すでにお腹いっぱいな感じが出始めているから。

ほんと、マスメディアのネタ食い散らかしは凄いは軽く通り過ぎて、酷い惨いも超えて、凄惨なものがありますね。メディアの制作現場がほんとうにキツイのだと察せられます。時間はなく人もいない徒手空拳の状況で、自社メディアに穴を空けるわけにはいかないから、投入できるものは何でも投入してしまえよと。

 でも、たかがアニメにここまで擦り寄りますか? かつての怪物メディアであるテレビが? いや、大人社会全体が?

 せっかく生まれたヒット作を、あまりにも身勝手に短期的に「食い尽くす」行為は、まあ何というか「メディアが視聴者より後ろにいる」感じがしてなりませんね。

 こちらも何かと問題の多い某公共放送ですが、まあアホな人たちはともかく面白い番組は多いですよ。とにかく気合を入れて、きっちり作ろうという気概を感じます。お金も人も足りているという違いはありますけどね。あとスポンサーを忖度しなくていいという(別のものへの忖度は必要ですが)。

 それでも、「鬼滅の刃には乗っからないわよ!」的な主旨で鬼滅の刃を利用しているサイトもあるわけで、わたしも今回、少なくとも「最&高!」という主旨ではないまま、記事を書いているわけで。最後にちょっと褒めたからOKよね的なこともやりたくないけどやる人もいる。つまりわたし自身も猫か杓子かのどちらかなのですな。苦笑

 それにしても、自分が年を取ったのだなぁと思うのですが、最近のマンガは「何となく小さくなった」ように感じるのですね。

 それが物語のスケールなのか登場人物なのか、設定なのか、よく分かりません。鬼滅の刃がそうだというのではなく、最近のマンガが全体的にそうだという話です。あーでも正直テニプリ(昔懐かしい)にも同じことを感じていたので、決して最近ではないのでしょう。

 感動できないというのではなく(煉獄は好きですw、あと派手な人もw)、あまり感情移入できなくなってきたのかもしれませんね。やはり年寄りだという話か凹。新しいタイトルに挑戦しては挫折しまくり。

 実は鬼滅も19巻でストップしていてラストまであと4巻は未読状態。再登場ごめんよテニプリあたりから週刊を追いかけるのはすっぱりやめました。

 「鬼滅の刃から〇〇を分析する」とか、いろいろと流行っておりますが、まあ、みなさん大変よね。寄らば大樹の陰とも言いますけれども、頑張って、自分も大樹になりたいところですな。笑

 詮無いことではあります。

十六言目 テレビデオをご存知ですか。

高付加価値≠良い商品

 いやはや師走。光爾ケイト(ひかりにけいと)です。

 多目的トイレ不倫で埋め尽くされているテレビ画面を避け、インターネットの世界でサバニを漕ぎまくっていましたら、懐かしのテレビデオが出てまいりました。ちなみにサバニとは、沖縄の漁業に使われていた木舟のことです。手漕ぎの小さな舟です。ネットサーフィンのことを沖縄ではネットサバニと言います(ウソです)。

 あ、さてさて、テレビデオの話。

テレビデオなんて言われても、1990年代以降の生まれの方はご存知ないでしょう。名称から想像はつくと思いますが。

 簡単に言えば、テレビとビデオデッキがくっついた機械です。

 どうせテレビとビデオを買うなら、くっついているやつを買えば面倒な配線もいらないし、アンテナをセットすればすぐに見られるしということで、一人暮らしを始める世代を中心に売れ筋になった商品です。

 しかし、スタートダッシュほどには社会に広がることなく、勢いは立ち消えになってしまいました。

 テレビデオが廃れた理由はいろいろと言われておりますが、なんと言ってもやっぱり「ビデオデッキ部分が壊れただけでも、テレビまでセットで入院=テレビが見られない」ということに尽きると考えております。

 発売当初(1980年代)のご時世では、ビデオデッキは割りと贅沢な部類のアイテムでしたので、各家庭に2つ3つとあるようなものではありませんでした。そこにビデオが壊れてテレビまで入院となれば、パソコンもスマフォもないテレビ全盛期の時代のこと、ご家庭のお茶の間は火が消えたような状態になっていたのは想像に難くありません。

 というわけで「テレビまたはビデオのどちらかが壊れたら、修理から帰ってくるまで一緒に入院」という特性がテレビデオを廃れさせたというわけです。

 ああ。話の主題はそこじゃないのに、エンディングに入るところでした。

 このテレビデオ、テレビやビデオデッキをそれぞれ単品で買うより割高な商品でした。2つの贅沢品を合体させたのだから、そりゃあ高いでしょう。という主旨の値付けではないでしょうが、画面の大き目なテレビデオは値段の張る商品であったことは間違いありません。

 こういう商品がいかにもジャパニーズ・ファクトリズム(造語)じゃないかなと思われます。「くっついたら便利でしょ!」のアイディア一発、これが高付加価値テレビなのか、高付加価値ビデオなのかは置いておくとしても、「高付加価値の高額商品」というのが、日本のジャパニーズ・ファクトリズム(造語)なんですな。そしてこれは、日本以外では意外に受け入れられていないと。あ。そうですね、それで日本製品が海外で売れない、代わりにシンプル機能のロープライス海外製品が売れて、日本の家電メーカーが海外の企業に買われたりしているのが21世紀の流れだった。忘れていました。

いやいや、なるほどテレビデオの時代(1980年代)には成功パターンだった「高付加価値の高額商品」が、成功しすぎたために変えられなくなった。ということですね。

何故かと言うと、その成功パターンでのし上がった人たちが経営陣にいたから。でしょうね、やっぱり。成功体験はなかなか捨てられませんから。

 こうやって世界を俯瞰してみる(つもりでいる)と、失敗は上の年代から、新しいものは下の世代から、常に生まれているような気がします。

 成功体験に寄りかからずに生きていけるかどうか。これが大切なのですね。ということは、自己啓発本なんぞ読んでいる場合じゃないですね。他人の成功体験をマネしている場合じゃない。自分のアタマで自分の未来を考えよ。自分の人生だぞ。ということですね。

 勉強になりました。m(__)m (誰に御礼を)

 いやいや、詮無いことではありますが。

三言目 偉い人

居場所に負けると、勘違い。

 世界のみなさま、おはこんばんちは。光爾ケイト(ひかりに・けいと)です。

「ものまうす おきなはからに」、今日は偉い人について。です。

 沖縄には「たーが しーじゃか」という決まり文句があります。直訳だと「誰が年長者か」となり、「わたしが年長者だから、わたしの言うことを受け入れるべきだ」という意味で使われる言葉です。

 だいたいは、これ以上の議論は不要だとして話を打ち切るときに使います。

 世界中、どこの国でもそうだと思います(あるいは信じたいです)が、年長者というものはだいたい敬意をもって扱われています。儒教の国は間違いなくそうですし、個人の自由に傾倒著しい日本であっても、年長者は相応の気遣いを受けています(と信じたい)。

 しかしながら、年長者だからと言って、決して偉い人であるとは限らないということを年長者自身が気づいていない場合が少なくないですね。残念ですけれど。

 自分は年長だから、役職も上だから、自分の言うことは年少者に比べて正しいし、やり方は間違ってはいないはずだ。と考える人の多いこと。

 んなわけねーだろ。

 誰だって間違う可能性はあるよね、だから自分を疑ってみるんだ。BY小学生時代のAくん(当時12)。笑

 敬われるにも資格がある。

 敬意は求めるものではなく、自然と向けられるもの。

 あなたが年長者であろうとなかろうと、役職が上であろうとなかろうと、あなたにその資格があれば、相手は自然と敬意をもってあなたに接してくるでしょう。

 年長者や偉い立場にいる人も必ずしも全能ではなく、その発言が100%正しいわけではなく、その行動が100%間違いないわけでもなく、そもそも必ずしも偉いわけではないということです。

 だいたいの人は、自分の居場所(役職や位階)に負けると、勘違いが始まるような気がします。

 書きながら、それを自分に置き換えてみたのですが、音もなくひとすじの涙がこぼれてきました。どうやらわたしの資格にも問題がありそうです。むしろ振り返るほどに問題が湧き出てきます。滝涙

 いやはや、詮無きことでありました。

 ではまた次回。

二言目「ものまうすな人(わたし)」

誰が言ったか? そんな馬鹿な。

世界のみなさま、おはようございます。もしくはおはこんばんちは。「ものまうす おきなはからに」の光爾ケイト(ひかりに・けいと)です。

 わたしは沖縄に生まれて、そして生きています。ちょいちょい世界から飛び出しては記した自分の見聞を追々語ることもあるでしょうが、この「ものまうす」では、沖縄から見た沖縄、日本国、日本のほかの地域、あるいはアジア、広がれば世界というマクロな話題から、隣近所にありそうなミクロなネタまで拾って触れていきます。

 コトバにチカラがあるのか、わたしには分かりません。

 昔、こういうことがありました。

 ある小学校で、チームごとに1枚の地図をもって、ある地点からある地点に移動するオリエンテーリングをやっていたときのこと。

 あるチームには学級委員長で成績トップクラスのAくんがいて、優勝候補だと言われていました。先生はほかのチームにもなるべく平等にクラスメートを分けていましたが、特にAくんは学業の成績だけではなく、筋道立てて物事を考えることでも周囲に知られていましたから、オリエンテーリングは彼のいるチームが優勝候補と言われたのです。

 さて蓋を開けてみたら、Aくんのチームは道をロストしてしまい、チェックポイントから大きく外れたところで探しに来た先生に発見され、最下位どころか時間外到着となってしまったのでした。

 チームメイトはAくんを頼り、Aくんもまた自分を疑うことなく進み、ゴール近くのチェックポイントまではAくんチームが断トツのトップタイムを叩き出していました。が、ゴール手前の分かれ道で、地図を読み間違えたAくんの指示により、チームはコースから外れてしまったのです。

 何度かチームメイトは言いました。いくら何でも1㎞もずれるはずがない。分かれ道まで戻ろうと。しかしAくんは頑なに譲りません。この地図に書かれている道の太さと、あの分かれ道の太さとでは、全く合っていない。もうすぐ道の太さが合致する分かれ道があるはずだと。

 そうです。学業優秀で、地図上の道の太さは実際の道路幅に比例していることを知っていたAくんは、先生が書いた手書きの地図の道の太さもそのようになっているはずだと誤解して道の選択を誤ったうえ、分かれ道まで戻ろうと言うチームメイトの意見を押しのけて、歩いていたのです。

「誰がどう考えても、あの分かれ道は左だったよな」

あとでチームメイトは口々に言いました。でも、Aくんにとって、あの分かれ道は地図とは全く合致しない道でした。

 誰のミステイクかと問うなら、もちろんAくんのミステイクであり、Aくんの意見を通したチームメイトのミステイクでもあり、もしかしたら道路の太さを微妙に書いてしまった先生のミステイクかもしれません。

 しかし、ここでのポイントは「コトバのチカラ」なのです。

学級委員長で成績優秀なAくんのコトバのチカラは、チームメイトには「Aくんが間違うはずがない」というイメージを与えており、チームメイトは自分自身の考えよりもAくんの意見を優先してしまった。

だけではなく、Aくん自身は自分の考えが最善であり、ほかの人間の考えや発言が、自分より正しいはずがないと考えてはいなかったか。考えていたから、チームメイトのコトバを信じなかったのではないか。

 はい、お察しの通り、Aくんは小学生時代のわたくしヒカリニです。

 「自分が正しくないかもしれない」という思いを初めて味わったあのときから今でも、わたしが大切にしていることのひとつは「まず自分を疑え」です。苦笑

 コトバにチカラがあるのか、わたしには分かりません。

 ただひとつ、言えること。

 コトバとは「誰が言ったのかではなく、何を言っているのか」なのです。

 誰が言ったかではなく、何を言っているか。小学1年生のコトバが的を射ていることは往々にしてあることです。

 政治家のおっさんが、何の意味もない空論をテレビで垂れ流していることも往々にしてあることです。

 そういうところを間違えない人でありたい。そう切に願う、ものまうす人(わたし)ではあります。

 ではまた次回。