二十七言目 男子マラソン4分台

旧態依然の・・・組織よ。

 どうも。月曜更新ですが今日の記事自体は28日の日曜日に書いている光爾です。今日の沖縄は晴天、3月1日も晴天だそうで、いろいろと乾かしたい人にはラッキーデイだと言えそうです。

 さて2021年2月28日、日本男子マラソン界が新たなステージに立ちました。

 びわ湖毎日マラソンで2時間4分56秒という記録が生まれました。「4分台」にたどり着いたわけですね。鈴木健吾選手(25=富士通)、おめでとうございます。

 もちろんめでたいのは間違いありません。

 たとえ日本陸連のダサい運営により1億円の新記録達成ボーナス(報奨金)が支給されなくても、4分台の新たなステージを切り開いた栄光は、現時点では日本男子最高の栄誉であることは間違いありません。

 日本陸連と言えば、選手に報奨金を支給するのにいまだにスポンサー収入に頼るような甘ちゃん(ま、アマチュアなので当然かもしれません)ですが、選手の育成方法もまあ甘ちゃんなんだよなと思わされるところがたくさんありますね。

 だいたい、マラソンという競技はもう長いこと強い選手と強い国が合致しているわけです。そして「なぜ強いか」という理由もだいたい分かっているわけです。

 となれば、なぜそれ(強い国の理由)をコピーしないのか。

 なんで「日本独特」のやり方に固執するのか。

 かつて世界ナンバーワンを競った日本マラソン界ですが、それはもう30年も昔の話です。あれから世界のマラソンは高速化し、世界記録が2時間5分を切ったのは2003年9月のこと。日本はそれから17年半も遅れているわけです。

 世界から17年半も遅れているのに、いまだに30年以上前の栄光を忘れられない人たちが、ふんぞり返っている。ま、日本のスポーツ界は、サッカーと野球を除けばだいたいこんなもんですよね。世界から何も学んでいない。野球だって世界から学んでいるのは選手個人だけであって、球界自体は旧態依然ですし。

 さ、男子マラソンが世界で勝つために。

 今すぐ練習拠点を海抜2000m級の高地に持っていくのです。そして、見込みのある若い選手を今すぐひたすら練習に打ち込める環境に置く(もちろん希望する選手のみ)。

 これだけですよ。

 練習拠点を海抜2000m級の高地に設定して、施設を建設する。

 そこに見込みのある若い選手(希望者のみ)を入れる。

 できれば、年間予算を投じて、スポーツメーカーの開発者やら、優秀なスポーツトレーナーやらを投入すると。

指導者に就く人は、競技者としての過去実績とかどうでもいいですよ。むしろ指導者としての実績がどのくらいあるか。そういうことが大事なのでは。

 え。

 海抜2000mの高地だけが必勝法ではない?

 それはそうでしょう。ただ、相手と同等の育成方法に立って初めて、次の育成段階が効果を持つわけです。いえ、今の育成方法にプラス「高地練習の標準化(拠点化)」が加われば、3分台、2分台も夢ではないでしょうね。

 それの実現には・・・ああ、今日はこの辺で。

 3月も良い日が続きますように。

二十六言目 おすすめ・ブラック校則(笑)

男子中学生は丸刈り

どうも・・・如月の晴天、気温は23度まで上がっているかどうかは実感できない光爾です。だってずっと室内ですからね。

身体を動かさないと、ふ、ふ、太ります。

ここ最近、沖縄でも吹いております「ブラック校則」をどうにかしようぜ旋風。

どううううしても寒いときは長ズボン着用を許す。とかですよね。

 その昔、わたしが中学生のころを思い出しますと確かに「ソックスは白に限る」というルールはありました。「下着も白に限る」というルールがあったかどうか、記憶は薄いですが、まあ中学まではパンツは白でしたよ、確かに。それに、聞いてみると女子には「下着は白」校則はハッキリとあったそうです。

 下着が白かどうか、女子はどうやって確かめられるのかと聞いたら、身体測定とかエンドオールザットだそうで、まあまあチェックされる機会はあったとのこと。オジサン的にはセクハラめいた考えが首をもたげましたが、まず声に出さなくて良かったです。

 さてさて。

 個人的には「校則は必要」と考えていて「なんでもかんでも個人の自由だろ」的な考えを持つ方々とは相容れないわたしですが、だからと言って「下着は白に限る」校則は中学生くらいまでだろうなと思うし、高校生になって下着が白限定だったら、まあ大人になれずにこじらせる人が増えそうなのでやめてほしいところですね。

 あと、パーマ禁止も妥当じゃないですか。せいぜいアルバイト程度しか収入を得られないはずの年齢で、パーマなどはお金がかかりますから。そういうのは禁止のままがよろしいでしょう。同様に、髪を染めるのも原則禁止ですよね。どこぞの人種のるつぼのような国のごとく、金髪も銀髪も天然パーマも赤毛も黒髪も、みんな地毛の人がいる、という国なら別ですけど、学生の本文が学業だというなら、髪染めやパーマは必要性のある人だけに許されるべきだと考えます。そこは、個人の自由とかではない領域ですから。

 集団にはルールが必要です。

 動物にすらルールがあるのに、人間に不要な訳がない。むしろ、動物には有り得ないような高尚なルールがあって然るべきじゃないですか。

 ただ、ですね。

 なんでもかんでも校則で縛るんじゃねーよ。

 という話ですよね。

 寒いときは制服の上からジャージを着るくらい、生徒の判断でいいじゃないですか。マフラーを巻くのも自由じゃないですか。

 だいたい、先生たちは職員室で生徒と同じように薄着を強いられているのですか?

などとね、言ってしまいたくなる。

 そういえば「野球部は坊主頭」というのは何か理由があるのでしょうか。昔は「男子中学生は丸刈り」という校則が多くの中学にはあって、それを拒んで私立に進学したり、なかにはまあ、自分で自分を弑した方もいらっしゃるそうで、代表的なブラック校則とも言えますね。

 髪の毛と言えば「その髪の色は地毛かどうか」という問題ですね。

 これの解決策は妥当な案があります。

高校の入学書類に、入学者全員(入学者全員ですよ?)小学校の卒業写真を添付させればよいじゃないですか。髪の色が黒ではない人間だけに「地毛証明」を出せと言うのは、人権に触れます。地毛証明も入学者全員に提出させるのであれば、(人権はともかく)少なくとも平等ではあるので、わたしは承諾しますけどね。

 どちらにしても、校則のすべてを日の当たる場所に並べて、これは妥当だとかブラックだとか、そういう判断をすべき時期に来ているのではないですかね。

 時代が変わるのなら、ルールも変わる。

 人の世とは、そういうものじゃないですか。

 まあ、詮無いこと・・・とも言えませんね、真剣な話です。

 子どもは国の宝ですからねえ。

2021年の初めに。

気が回らないのも自分らしさ。苦笑

明けましておめでとうございますと言っていいのは松の内まででしたっけ。どうも、光爾ケイト(ひかりに・けいと)です。明けましておめでとうございます。

 考えてみたら、昨年ラストの記事(2020年の終わりに)は十九言目だったわけで。これをきっちり二十に収めれば、なんとなく“おあとがよろしいようで”感も出ようというものの、ここまで気が回らないのが自分らしさよねと、正月から自分を慰めたり貶したりしておりますな。

 しかしコロナ禍のなかで今年も「新成人が大騒ぎです」とか「そんなバカタレはどうだ」とか、そういう記事も世間を賑わす季節の華と言えば、華ですよな。日本はまだまだ平和です。そんなおふざけが許される(?)のですから。ま、わたしたちも若いころは、ね。あまり現代の若い人を叱れるような、ね。むしろ今の若い人たちからお叱りを受けそうな、ね。

 まあしかし、新成人は未熟だから仕方ないのですよ。未熟だから。いま感染を広げているのはすっかり成熟した(あるいは完熟の)(あるいは熟しすぎた)大人たちだと思いませんか。思います、わたしは。

 行動規範を示すべき人たちが示せていない現状で、なにゆえ彼らの要望を聞き入れなきゃならんのかと、若い人が考えても文句は言えないのが現状。むしろ若い人に文句を言うなら、偉い人から順番に、ね、ちゃんと行動で示しましょう。いいじゃないですか、オンライン飲み会をやってください。スマートフォンやタブレット、パソコンの使い方も憶えてください。

そうして初めて、若い人に要望できるわけですよ。「俺らの言うこと聞けよ、なあ」と。

「コロナの感染拡大は避けたいじゃないかよ」「みんなのじいちゃんばあちゃんが感染したら生命の危機だぜよ」とかですね、偉い人が見本になって初めて、みんなも守ろうと思えるのでは。

 何も政治の世界だけじゃなく、会社でも学校でも、まずはシャッチョさんや校長先生がね、マスク手洗いをきちんとして、飲み会も控えると。でも悲しいかな、日本の偉い人像は「ルールや規範を守らなくていい」みたいなお殿様気質がありますから。「まずはリーダーが手本を示す」という欧米のリーダー像とは一線を画しているというか。まあ、どちらがいいかは置いときますヨ。国の立法府に民衆を煽動するリーダーもいるようですし。苦笑

 もしかして世界が変わっていくー。と考えれば、まあ世間の常識なんてものは、やっぱりそのときの状況に合わせて変わっていくものだと。

 「東京ラブストーリー」の時代(80年代末~90年代初頭)に携帯電話が普及していたら、などと考えるのは野暮で、あの時代はあの状況だったからあのストーリーが成り立つのであって、300年前なら「大江戸恋物語」などと銘打たれた人情噺が芝居小屋で演じられていたかもしれず、600年前なら「武蔵下総回遊記」みたいな感じで江戸は都市ですらなかったわけです。

 いまや開催は風前の灯火となった(ような気がする)東京オリンピックの前回大会1964年の映像でようやくカラー映像が見られるくらいです。ここまでの間にどれだけ常識が変わったか、ですよね。

 それを考えれば、コロナ禍の常識の変化なんざ、軽い軽い。

 時間は戻れないから面白いのであって、命はいつか尽きるから必死に生きる意味があるのです。

 はい、今年も一所懸命に生きましょう、みなさま。

 ことよろぷーでございます。

2020年の終わりに

2021年に恋煩い💛

 どうもー。沖縄は珍しく晴れ、光爾(ひかりに)です。

 明日までは晴れ。明後日からは雨。2020年12月の沖縄は「ほぼ雨」でした。コインランドリーは相当儲かったことでしょう。わたしも始めようかしら。ちょっとカネオくんに聞いてみようかしら。笑

 さて、今日は12月25日でクリスマスですが、今年始まったこの「ものまうす」の年内更新は、今日で締めておきたいと思います。

 今年もいろいろなことがありましたが、右を見ても左を見ても「コロコロコミックコロナ」ばかりでしたね。わたしも何度取り上げたことか。

 しかし今年も、ほんとうにたくさんの著名人がお亡くなりになりました。

 時代の顔になった方々が多く、単なる年越しという意味ではなく、本当に時代は変わっていくのだなあと感じています。

 偉い人が好き放題やっていると、それを国民が流していると、国全体がバカになる。のだと考えますが、わたくし個人にできることも限られておりますので、まずは自分の身近なところから頑張ってみますか。

 珍しくそんな気持ちに駆られております。

 これ、「本気になる」とかならないとか、そういうことですよね。

 どうか自分自身が「貝沼くん(分かる人だけ分かればいい)」ではなく、もう少し地力ある人間であることを祈ります。ああいう人、割と身近にいそうですからね。どうかわたしはもう少し地力ある人間でありますように。

 できることを増やしていって、たどり着きたい場所がある。

 そうだ、この連休を有効に使おう!

 あ。貝沼くんみたいな匂いがしてきた。笑

 どなたさまも、どうぞお健やかに年を越されますように。

 新しき年もお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。

 そして。

 メリークリスマス!

十八言目 アイツは優秀だ。

俺のイエスマンに育てよう。

どうも。沖縄は長い雨、光爾(ひかりに)です。

 毎日毎日ほぼ雨が降っており、洗濯物が干せぬ。近所のコインランドリーの経営者は笑いが止まらないだろうなぁ。と、ぼやいたりしています。

 先日、あるエラい人が申しました。

「アイツは優秀だ。見どころがある。」

わたしは思いました。

「アンタは何様だ」

どうもわたしは、年上の方には意地悪になってしまうところがあります。

その理由を探して自分のなかに旅に出てみたところ、若いころに出会った当時のボスが何というか知恵のある方で、それだけではなく、身体もでかい(太い?)が人間的な器の大きさのある方で、どうもそのボスと、その後に出会ったいろいろな方を比較してしまうクセがあるのだということに気がつきました。

 考えれば当時のボスは、わたしをドライバーに指名しながら、たくさんの人物評を聞かせてくれたものです。いま会ったばかりの人もいれば、以前にお会いした人のことを思い出しながら「アイツは優秀だ」「アイツはイマイチだ」だけではなく、こういうところが良くて、こんな部分はイマイチだ。人間に求められるのは〇〇で、仕事としては〇〇な要素がほしいなどと、微に入り細を穿つような人物評で、実に多くの事を学ばせて頂きました。

 ご本人は「人生はマイナスから始まった成金」の自覚を持ち、「10代のアルバイト以外に人に使われたことはない」という学生ベンチャーの走りのような方でした。

 体形はともかく、こんな人になりたいと常から考えておりましたが、残念ながら似てきたのは体形だけのようです。

 いや、話が逸れました。

冒頭の「アイツは優秀だ」に「アンタは何様だ」の話なのですが、たとえばAさんがBさんを評価した時、それが当てになるか否かはAさんが近しくしている人たちを見れば分かりますよね。

 だいたいAさんがどんな能書きを垂れようが、仕事のできないイエスマンばかりを集めているようでは、Aさんの人物評など当てになるわけがない。なんならAさんと近くなろうとも思わない。評価されたくもない。そこまで0.2秒くらいの思考で「アンタは何様だ」になったわけです。

いろいろな人が「アイツは優秀だ」と言います。皆さん、その人の「優秀だ」がどういう意味か、当てになるかは、その人が近づけている人物、近しくしている人たちを見ると良いです。そして、イエスマンを集めている人には要注意。ということです。

 いやはや、昔懐かしいころを思い出しました。

 当時のボスは今や病に屠っているそうです。長年の酒食に祟られたかという話ですが、長生きして頂きたいと心から願います。

 詮無い話でありました。

十六言目 テレビデオをご存知ですか。

高付加価値≠良い商品

 いやはや師走。光爾ケイト(ひかりにけいと)です。

 多目的トイレ不倫で埋め尽くされているテレビ画面を避け、インターネットの世界でサバニを漕ぎまくっていましたら、懐かしのテレビデオが出てまいりました。ちなみにサバニとは、沖縄の漁業に使われていた木舟のことです。手漕ぎの小さな舟です。ネットサーフィンのことを沖縄ではネットサバニと言います(ウソです)。

 あ、さてさて、テレビデオの話。

テレビデオなんて言われても、1990年代以降の生まれの方はご存知ないでしょう。名称から想像はつくと思いますが。

 簡単に言えば、テレビとビデオデッキがくっついた機械です。

 どうせテレビとビデオを買うなら、くっついているやつを買えば面倒な配線もいらないし、アンテナをセットすればすぐに見られるしということで、一人暮らしを始める世代を中心に売れ筋になった商品です。

 しかし、スタートダッシュほどには社会に広がることなく、勢いは立ち消えになってしまいました。

 テレビデオが廃れた理由はいろいろと言われておりますが、なんと言ってもやっぱり「ビデオデッキ部分が壊れただけでも、テレビまでセットで入院=テレビが見られない」ということに尽きると考えております。

 発売当初(1980年代)のご時世では、ビデオデッキは割りと贅沢な部類のアイテムでしたので、各家庭に2つ3つとあるようなものではありませんでした。そこにビデオが壊れてテレビまで入院となれば、パソコンもスマフォもないテレビ全盛期の時代のこと、ご家庭のお茶の間は火が消えたような状態になっていたのは想像に難くありません。

 というわけで「テレビまたはビデオのどちらかが壊れたら、修理から帰ってくるまで一緒に入院」という特性がテレビデオを廃れさせたというわけです。

 ああ。話の主題はそこじゃないのに、エンディングに入るところでした。

 このテレビデオ、テレビやビデオデッキをそれぞれ単品で買うより割高な商品でした。2つの贅沢品を合体させたのだから、そりゃあ高いでしょう。という主旨の値付けではないでしょうが、画面の大き目なテレビデオは値段の張る商品であったことは間違いありません。

 こういう商品がいかにもジャパニーズ・ファクトリズム(造語)じゃないかなと思われます。「くっついたら便利でしょ!」のアイディア一発、これが高付加価値テレビなのか、高付加価値ビデオなのかは置いておくとしても、「高付加価値の高額商品」というのが、日本のジャパニーズ・ファクトリズム(造語)なんですな。そしてこれは、日本以外では意外に受け入れられていないと。あ。そうですね、それで日本製品が海外で売れない、代わりにシンプル機能のロープライス海外製品が売れて、日本の家電メーカーが海外の企業に買われたりしているのが21世紀の流れだった。忘れていました。

いやいや、なるほどテレビデオの時代(1980年代)には成功パターンだった「高付加価値の高額商品」が、成功しすぎたために変えられなくなった。ということですね。

何故かと言うと、その成功パターンでのし上がった人たちが経営陣にいたから。でしょうね、やっぱり。成功体験はなかなか捨てられませんから。

 こうやって世界を俯瞰してみる(つもりでいる)と、失敗は上の年代から、新しいものは下の世代から、常に生まれているような気がします。

 成功体験に寄りかからずに生きていけるかどうか。これが大切なのですね。ということは、自己啓発本なんぞ読んでいる場合じゃないですね。他人の成功体験をマネしている場合じゃない。自分のアタマで自分の未来を考えよ。自分の人生だぞ。ということですね。

 勉強になりました。m(__)m (誰に御礼を)

 いやいや、詮無いことではありますが。

十四言目 首里城の龍のお顔の向き

勘違いも甚だし。

 どうも、気がつけば11月も25日となっていますね。光爾(ひかりに)です。

 先日、沖縄県立博物館・美術館の講堂では「首里城の大龍柱の顔の向き」について、シンポジウムが開催されました。

大龍柱(だいりゅうちゅう)とは、これのことです。(向き合っています)

 どう思います? このシンポジウムのテーマ。「大龍柱の顔の向き」とは、お互いに向き合っているか、並行して正面を向いているか、という話ですよ。

 学識者って、ひまじんのことを指すのですね。

 いや、良いことです。そういうことに現を抜かせるのは、少なくともこの方々の周囲は平和だということです。平和なご時世で良かったです。

 ただですね。勘違いしないでほしいです。

 決して「大龍柱はひまじん学識者のものではない」ということです。

 歴史書の何が正しくて何が間違っているとか、過去を調べるのは構いませんが、大龍柱が誰のものかというと、「未来を一緒に生きる市民のもの」なわけです。

 ならば、ひまじん学識者が向きを決めるのではなく、市民に決めてもらえばいい。向き合っている時期も正面を向いている時期も、いずれも存在したということは、どちらも間違ってはいないということです。

 それじゃー、大龍柱の顔の向きは、WEB投票で決めようぜ。現代っぽくヨ。笑

 いやほんと、大龍柱のお顔の向きをこれだけ論じる時間があるなんて、なんて平和なのかしらと嘆息せずにはおれませんな。

 しかも、管理責任者のボスまで登壇して。謝罪のひとつくらいは述べたでしょうか。このひまじん学識者とやらの常識を疑います。

 いやはや、沖縄は平和ですぞ。

九言目 タバコに、ものまうす。

法律でタバコ禁止な世界。

 どうも。光爾ケイト(ひかりに・けいと)でおます。

 あ、関西弁に意味はありません。

関西弁といっても物凄く幅が広いので、うかつに使ったりはしませんが、たまに関西出身者にテレビのノリよろしく関西弁を使ってしまったら、「なんやねん、コイツ」と眉根にしわビッキビキな視線を受けてしまいます。

 その視線には「関西弁は関西人のアイデンティティやぞ。よそもんは使うなや。使えもせんくせに」というような意見が込められているのかしらと勝手に解釈していたら、まー、そうでもないそうです。

 「なんやねん、コイツ。どうせならもっと上手にしゃべってくれ」とか考えているだけ。だそうです(一部の意見ですが)。日本人の英語(カタカナ英語)がどのように見られているか、というのと同じなんでしょうか。

 どうでもいいイントロでこんなに行数を使っていいのか分かりませんが、まあ良いとしておきましょう。

 今日、ぼんやりと考えていたのはタバコのこと。

 先週だったか、友人が訪ねてきてタバコについて愚痴をこぼしていたのです。なんでも、令和2年10月からまたタバコが値上がりして、愛煙家の方々が背負う十字架がさらに重くなったのだそうで、そろそろタバコをやめようかどうしようか迷う自分がいると、そのような話でした。

 まあ、この友人はきっとタバコはやめませんけどね。

 値上がりのたびに毎回同じ話をしているので。

もしかしたら彼に限らず、値上がりのたびに禁煙が話題になるのは愛煙家のみなさまには毎度のことなのかもしれません。

 百害あって一利なしの典型などと枕詞をつけられるタバコ。

 様々な病気の直接的な原因、または間接的な原因、もしくは遠因のひとつとされており、喫煙者は動物園のオリのごとき小部屋に詰め込まれて喫煙を強制させられ、最近では屋内禁煙が原則禁止となるなど、それはもう人権をはく奪されたかのような扱いを受けております。

「なんで高額納税者の俺たちが、煙くさい劣悪な環境の小部屋で喫煙タイムを過ごさなければいけないんだ」というのが喫煙者の主張が、わたしには理解できます。しかし、喫煙者の主張などは世のなかにはあまり受け入れられていませんね。

「確かに臭いや煙で他人に迷惑をかけるからな。小部屋に入るのは肯ぜられない。とは言えないけどな」というように、最近はやりの芸人のように否定なのか肯定なのか分からないまま悲し気な顔をされると、さすがに同情したくもなります。

 ところで素朴な疑問なのですが、このタバコはなにゆえ法律で禁止されないのでしょうね。

 国は病気の原因となるタバコを法律で認めている。

 タバコを法律で禁止すれば喫煙者がゼロとなるので、もちろん年間2兆円を超えるタバコ税の税収はなくなります。しかし、数年のうちには年間40兆円を超える医療費の何割かは削減できるようになるのではありませんか。

つまり、タバコを原因とする病気の罹患率が下がるはずなので。真にタバコが病気の原因であるならば、ですけれど。

いえいえ、「タバコは害悪、諸病の根源」の一般的な見解に盾突くわけではありませんよ。ほんとうに諸病の原因ならば何故法律で禁止しないのか。ということを申し上げているだけです。

 ひとつ、法案を出します。

 まず法律で国内の喫煙を禁じます。合わせて国内でタバコの生産・販売も禁じます。法律により禁煙を余儀なくされる人には、毎月5000円の禁煙給付金を3年間給付します。どうぞ給付金を使って禁煙してください。

 残念ながら喫煙者ではなかった人には給付金はありません。もう受動喫煙の害がなくなる喜びをかみしめてください。でも、喫煙者のようにタバコ税を払っていたわけではないので、給付金がないのは当然ですから騒がないでくださいね。

 で、タバコの葉を生産していた農家のみなさまには、転作もしくは転業、就業支援付きで手厚く対処します。なんなら農地を買い上げてもいいのではありませんか。

 それでも、数年のうちに削減できるはずの40兆円からの数割(仮に3割削減できたとして12兆円)で賄えます。

 さあ、やりましょう、法律でタバコ禁止。

 なんて素晴らしい世界がそこに。笑

六言目 今こそ農林水産業だ。

働く人にー、なりたーいーなー♪

 どうも。光爾ケイト(ひかりに・けいと)です。

 マスメディアを見渡すと、「コロナコロナコロナ、コーロナコロナ、コロコロコロナ」的な感じで、何かの失敗はコロナのせい、何かの事故はコロナのせい、会社の倒産もコロナのせい、自治体の倒産もコロナのせいで生まれそうな状況らしいですね。

 某国某地域の某武〇で生まれたと指摘されている新型コロナウイルスの影響は計り知れず、その威力は史上最大級のダメージを全地球規模で人類に強いています。恐ろしいですね。これがウワサ通りに人為的に生み出されたものだとしたら、これはひとつのバイオテロ、ヒューマンハザード(人為的災厄)と言えますが、それをどうこう言うより早く本題に触れたいので進めますw。

 この新型コロナウイルスが人類に由来するしないは別として、恐ろしい災厄のひとつとなってしまったからには、人類としてはこれを乗り越えなければならないわけです(お、ちょっと話が人類規模まで広がっておりますが、大丈夫でしょうか)。

 とりあえず病理的な部分は専門の方にお任せするとして、わたしたちに手洗いうがいマスク以外に何ができるかを考えてみました。

すると、経済的な面からは、わたしたちひとりひとりの個人的な話でもあり、そしてある程度大きな地域経済でもあり、国ひとつの経済の話にもなりますが、結論から言いますと、「今こそ農林水産業だ」という考えに至りました。

 そうです、今こそ農林水産業なんです。

 新型コロナがどうであれ、人間らしい暮らしの根源にあるのは衣食住の充実です。

最初の緊急事態宣言のときも現在も、衣食住およびそれらに関わる物流などは止まりませんでした。

もちろん、止められるものでもありませんが、海外からの物流は一部が滞ったので、衣食住のうち「住の新規建設にかかる資材等の輸入」が一時ストップして建設現場が硬直したり、あるいは「食の一部食料の輸入」が一時ストップして食糧が値上がりしたり、というようなことが見受けられました。

 お判りでしょう。

 衣食住を支える農林水産業が充実していれば、これらの問題は十分対応可能なのです。今を国難というのなら、まずは国難を支えられるだけの農林水産業を充実させておくべき。現代の国内課題で医療の充実に比肩する課題は、これを置いてありません。

 そして、その手法も分かり切っています。

 ひとつ目は、たとえば沖縄では大東島で見られるような、機械を使った大規模農業です。人口の少ない大東島ではもともと機械を使った農業が盛んでした。

 ふたつ目は、家業制ではなく、農業生産法人を主体とした法人農業です。個人のチカラに頼るのではなく、中間で農産物や農薬からマージンを搾取する農協などは無くしてしまって、経営のプロが経営をし、農業のプロが社員として農業を請け負う法人制で、国内の農業全体を再編していくということです。

 もちろん課題は、気象に左右されにくい農業をいかに実現するか、ということです。

あれ? いつの間にか話が農業だけに絞られてしまっていますね。

 しかし農林水産業全体に言えることです。

 人口減少のなかで、いかに機械を使えるか、そして法人として安定させいけるか、気象天候に左右されにくい生産体制を築けるか。

 以前からの問題と認識しているのか、いないのか。お米は減反が進むばかりで、休耕地は増えるばかり。

 大事なことなので何度も言いますが、これからは農林水産業です。

 個人的には今から転職するつもりは微塵もありませんが、これからも農林水産業は応援していきます。

 いやまあ、詮無いことなんですけどね。

三言目 偉い人

居場所に負けると、勘違い。

 世界のみなさま、おはこんばんちは。光爾ケイト(ひかりに・けいと)です。

「ものまうす おきなはからに」、今日は偉い人について。です。

 沖縄には「たーが しーじゃか」という決まり文句があります。直訳だと「誰が年長者か」となり、「わたしが年長者だから、わたしの言うことを受け入れるべきだ」という意味で使われる言葉です。

 だいたいは、これ以上の議論は不要だとして話を打ち切るときに使います。

 世界中、どこの国でもそうだと思います(あるいは信じたいです)が、年長者というものはだいたい敬意をもって扱われています。儒教の国は間違いなくそうですし、個人の自由に傾倒著しい日本であっても、年長者は相応の気遣いを受けています(と信じたい)。

 しかしながら、年長者だからと言って、決して偉い人であるとは限らないということを年長者自身が気づいていない場合が少なくないですね。残念ですけれど。

 自分は年長だから、役職も上だから、自分の言うことは年少者に比べて正しいし、やり方は間違ってはいないはずだ。と考える人の多いこと。

 んなわけねーだろ。

 誰だって間違う可能性はあるよね、だから自分を疑ってみるんだ。BY小学生時代のAくん(当時12)。笑

 敬われるにも資格がある。

 敬意は求めるものではなく、自然と向けられるもの。

 あなたが年長者であろうとなかろうと、役職が上であろうとなかろうと、あなたにその資格があれば、相手は自然と敬意をもってあなたに接してくるでしょう。

 年長者や偉い立場にいる人も必ずしも全能ではなく、その発言が100%正しいわけではなく、その行動が100%間違いないわけでもなく、そもそも必ずしも偉いわけではないということです。

 だいたいの人は、自分の居場所(役職や位階)に負けると、勘違いが始まるような気がします。

 書きながら、それを自分に置き換えてみたのですが、音もなくひとすじの涙がこぼれてきました。どうやらわたしの資格にも問題がありそうです。むしろ振り返るほどに問題が湧き出てきます。滝涙

 いやはや、詮無きことでありました。

 ではまた次回。