二十四言目 東京五輪は中止か無観客。

いやもう、GOTOの二の舞はもういや

どうも。月曜日更新を守りたいあまりに2月1日だよねってことを先週書き忘れた光爾です。

カレンダーに触れないのは、物書きとしては下手打ったみたいな感があります。

 さて、銀座のクラブをほっつき歩いてみたら地獄にたどり着いてしまった議員先生もいるコロナ禍ですが、議員辞職した方はまだ立派です。許して差し上げたい。次の選挙には立候補してください。

一方で辞職の辞も触れてこない先生方にこそ即刻辞職して頂きたいものですな。そういう先生方にはその地位にしがみついてほしくない。人間というのは不思議なものです。

 そしてそのコロナ禍のなかで緊急事態宣言が三度発出されている最中に「東京五輪は必ずやる」と息巻いている渦の中心が総理大臣と元・総理大臣ということで、これまたやっぱりどうなのよと言わざるを得ない。

 さらにはその元・総理大臣が「女性に関する旧時代的な価値観」を全世界に向けて発信してしまったということで、ですね。

 いろいろ恥ずかしいです。

 もう顔が真っ赤になるくらい、恥ずかしいです。

 そんな人たちに投票した人たちがいるのですよね(わたしは投票していませんけど)。

 東京五輪は万歩譲って完全無観客(中継のみ)、百歩譲って中止ですよね。

 まずは完ぺきな感染予防対策が必要。

仮に感染者が出ないとしても、感染者が出るものと想定して、完ぺきな医療体制を構築しなければならない。

 それらが整ったとしても、辞退者が多く出たら、それは果たして世界一を競う競技大会と呼べるのか否か。呼んでいいものかどうか。

 じゃあいつになったら、競技大会が開催できるんだよ!と言いたいですよね。

 もちろん「治療薬」が整ったら、ですよ。ワクチンではなく、治療薬が。

 要するにインフルエンザ並みの扱いまで危険レベルを下げられたら、五輪規模の大会は実施できるのだと考えられます。

 いまは感染力の強さも含めて、インフルエンザの何倍も警戒が必要です。

 せめて無観客。

 それなら1万人余りの選手団を決められた場所に完全に隔離すればいい。それだけでも難易度は超がつくレベルですが(来日時点で観戦していたら、その場所がスーパークラスターになりかねない)。

 可能な限り中止。

 それが今回の東京五輪でしょう。

 これは詮無い話ではありませんね。

 お偉い方にもきちんと理解して、考えてほしい話です。ほんとうに。

2021年の初めに。

気が回らないのも自分らしさ。苦笑

明けましておめでとうございますと言っていいのは松の内まででしたっけ。どうも、光爾ケイト(ひかりに・けいと)です。明けましておめでとうございます。

 考えてみたら、昨年ラストの記事(2020年の終わりに)は十九言目だったわけで。これをきっちり二十に収めれば、なんとなく“おあとがよろしいようで”感も出ようというものの、ここまで気が回らないのが自分らしさよねと、正月から自分を慰めたり貶したりしておりますな。

 しかしコロナ禍のなかで今年も「新成人が大騒ぎです」とか「そんなバカタレはどうだ」とか、そういう記事も世間を賑わす季節の華と言えば、華ですよな。日本はまだまだ平和です。そんなおふざけが許される(?)のですから。ま、わたしたちも若いころは、ね。あまり現代の若い人を叱れるような、ね。むしろ今の若い人たちからお叱りを受けそうな、ね。

 まあしかし、新成人は未熟だから仕方ないのですよ。未熟だから。いま感染を広げているのはすっかり成熟した(あるいは完熟の)(あるいは熟しすぎた)大人たちだと思いませんか。思います、わたしは。

 行動規範を示すべき人たちが示せていない現状で、なにゆえ彼らの要望を聞き入れなきゃならんのかと、若い人が考えても文句は言えないのが現状。むしろ若い人に文句を言うなら、偉い人から順番に、ね、ちゃんと行動で示しましょう。いいじゃないですか、オンライン飲み会をやってください。スマートフォンやタブレット、パソコンの使い方も憶えてください。

そうして初めて、若い人に要望できるわけですよ。「俺らの言うこと聞けよ、なあ」と。

「コロナの感染拡大は避けたいじゃないかよ」「みんなのじいちゃんばあちゃんが感染したら生命の危機だぜよ」とかですね、偉い人が見本になって初めて、みんなも守ろうと思えるのでは。

 何も政治の世界だけじゃなく、会社でも学校でも、まずはシャッチョさんや校長先生がね、マスク手洗いをきちんとして、飲み会も控えると。でも悲しいかな、日本の偉い人像は「ルールや規範を守らなくていい」みたいなお殿様気質がありますから。「まずはリーダーが手本を示す」という欧米のリーダー像とは一線を画しているというか。まあ、どちらがいいかは置いときますヨ。国の立法府に民衆を煽動するリーダーもいるようですし。苦笑

 もしかして世界が変わっていくー。と考えれば、まあ世間の常識なんてものは、やっぱりそのときの状況に合わせて変わっていくものだと。

 「東京ラブストーリー」の時代(80年代末~90年代初頭)に携帯電話が普及していたら、などと考えるのは野暮で、あの時代はあの状況だったからあのストーリーが成り立つのであって、300年前なら「大江戸恋物語」などと銘打たれた人情噺が芝居小屋で演じられていたかもしれず、600年前なら「武蔵下総回遊記」みたいな感じで江戸は都市ですらなかったわけです。

 いまや開催は風前の灯火となった(ような気がする)東京オリンピックの前回大会1964年の映像でようやくカラー映像が見られるくらいです。ここまでの間にどれだけ常識が変わったか、ですよね。

 それを考えれば、コロナ禍の常識の変化なんざ、軽い軽い。

 時間は戻れないから面白いのであって、命はいつか尽きるから必死に生きる意味があるのです。

 はい、今年も一所懸命に生きましょう、みなさま。

 ことよろぷーでございます。

十五言目 永遠のサッカー少年

天才マラドーナ

 どうも。その昔サッカー少年だった光爾(ひかりに)です。

 自分が少年でないことに気がついたのは最近のことです。我ながら、なんておこがましいことでしょう。

 さて先日(25日)、天才ディエゴ・マラドーナさんが亡くなりました。1960年生まれ、まだ60歳という若さで。

 サッカーにおいて個人技重視の南米スタイル、組織重視の欧州スタイルの二大潮流があるとして、天才マラドーナがどちらのスタイルであったか、言わずと知れたことでしょうが、南米スタイルです。敢えて言う。

 1986年のメキシコワールドカップで頂点を極めた天才マラドーナですが、ある意味ではサッカー界そのものを勝者に導いたのだとも思えます。

 サッカーは野球など相手にならないくらい世界中で愛されている競技なのだと、それこそ日本中に思い知らせてくれたのもメキシコ大会であり、また天才マラドーナでありました。

 世界中が嘆いているのかもしれませんが、やはり彼のことを話すとき、その栄枯盛衰に触れずにはおれないでしょう。

 彼の周囲には、「カネの扱いに長けた信頼できる人」がいなかった。

 それは貧しい暮らしから大金持ちになった多くの人たちに共通する環境であり、そして南米出身の選手の多くに見られるように20代後半のトップフォームを過ぎると体調管理に失敗し(そもそも体調管理という概念がなかった)、30代以降は浮き沈みの激しい人生に身を置いていく。

 信頼できる周囲の人。

 これが何より大事なのだと、プロスポーツ選手の人生が教えてくれる。天才マラドーナの人生もまた。

 キング・ペレは大人になれたので、政治の世界に進むこともできた。

 天才マラドーナは永遠のサッカー少年であり、大人になれないままに世界を渡り歩き、大人になる前に鬼籍への河を渡った。そんな気がします。

 その人生の幸不幸を、本人以外の人間が評することに意味はありませんが、せめて渡河の刻には笑顔であったことを祈ります。

 永遠のサッカー少年、天才ディエゴ・マラドーナ。

 天に召されし魂に、神の祝福の多からんことを。

十三言目 アメリカの消去法

バイデンじゃないのよトランプじゃなかっただけ。

 どうもー。光爾ケイト(ひかりに・けいと)です。気がつけば今日は11月も8日じゃないですか。

3日に開票が始まった亜米利加の大統領選挙は永遠に終わらないものかと思っていましたが(ある意味では終わらないのかもしれませんが)、現地時間7日(日本では8日未明)にようやく勝利宣言が出ましたね。

 メリケン・プレジデンシャル・イレクションは、本当の意味で「合衆(州)国」であった18世紀の選挙制度そのままだそうで、州によって制度が違うのは当たり前、その違いが国全体に捻じれを起こすのも歴史的に見られてきた話なのですね。

 何というか、さすがは世界的にも珍しい、封建制度の歴史を持たない国家であると言えますね。大方の日本人には、理解こそできても納得はできないのではないかと思われます。だいたい選挙の締め切りが地域によって違うなんて、ねえ。笑

 この米国大統領選は世界中が注視していて、まあ大多数の国は胸を撫でおろし、割と少数の国は舌打ちしたかもしれない結果と言って差し支えないでしょう。

 かの国の選挙結果のマップを見ると、国土の東西両端に近いほうは民主党が勝ち、南部と中央部は共和党が勝っています。伝統的な分布ですが、これからこのアメリカが大変だろうなと思うのは、これだけの人が4年前も今も不満を持っていて、そして自分たちの暮らしに危機感を持っているということです。

 本当に、二分され相反する価値観が国内に敵対的に存在しているということです。これの融和。相反する価値観が協調性を見出せるポイントの確立。しかも大急ぎで。

 お金をかければできますけどね。

 それこそSDGsに沿う形の産業を起こすと。旧態依然とした石油産業を、そこに切り替えると。あれ。日本でも出来そう。笑

 どちらにしても今回の選挙結果は、「この4年間は厳しかった。やっぱヤベーよ。アイツはやめとこうぜ」的な、米国民(の浮動票層)にとっては消去法での選択だったとお察し申し上げます。それは非常に理解できますし。

 日本としては、まあ元首が変わっても立場は変わらないでしょうが、ムリな要求が少なくなりそうな分だけ歓迎できるのかもしれません。

 ま、どのみち外国の話ですし、わたしたちの暮らしの何かがすぐに良くなる、なんてことはあまりなさそうですが、国同士の対話は進められそうな気はしますね。あと、やっぱり地球環境にも良さそうです。

 ひとりでそれだけの影響を、厳しい方向に導いてきた現大統領。やはり歴史に名を遺すでしょうね。21世紀前半の世界的なトピックスとして。

 そういう意味では、すごい人だったのかも。

 ま、詮無いことですけどね。

六言目 今こそ農林水産業だ。

働く人にー、なりたーいーなー♪

 どうも。光爾ケイト(ひかりに・けいと)です。

 マスメディアを見渡すと、「コロナコロナコロナ、コーロナコロナ、コロコロコロナ」的な感じで、何かの失敗はコロナのせい、何かの事故はコロナのせい、会社の倒産もコロナのせい、自治体の倒産もコロナのせいで生まれそうな状況らしいですね。

 某国某地域の某武〇で生まれたと指摘されている新型コロナウイルスの影響は計り知れず、その威力は史上最大級のダメージを全地球規模で人類に強いています。恐ろしいですね。これがウワサ通りに人為的に生み出されたものだとしたら、これはひとつのバイオテロ、ヒューマンハザード(人為的災厄)と言えますが、それをどうこう言うより早く本題に触れたいので進めますw。

 この新型コロナウイルスが人類に由来するしないは別として、恐ろしい災厄のひとつとなってしまったからには、人類としてはこれを乗り越えなければならないわけです(お、ちょっと話が人類規模まで広がっておりますが、大丈夫でしょうか)。

 とりあえず病理的な部分は専門の方にお任せするとして、わたしたちに手洗いうがいマスク以外に何ができるかを考えてみました。

すると、経済的な面からは、わたしたちひとりひとりの個人的な話でもあり、そしてある程度大きな地域経済でもあり、国ひとつの経済の話にもなりますが、結論から言いますと、「今こそ農林水産業だ」という考えに至りました。

 そうです、今こそ農林水産業なんです。

 新型コロナがどうであれ、人間らしい暮らしの根源にあるのは衣食住の充実です。

最初の緊急事態宣言のときも現在も、衣食住およびそれらに関わる物流などは止まりませんでした。

もちろん、止められるものでもありませんが、海外からの物流は一部が滞ったので、衣食住のうち「住の新規建設にかかる資材等の輸入」が一時ストップして建設現場が硬直したり、あるいは「食の一部食料の輸入」が一時ストップして食糧が値上がりしたり、というようなことが見受けられました。

 お判りでしょう。

 衣食住を支える農林水産業が充実していれば、これらの問題は十分対応可能なのです。今を国難というのなら、まずは国難を支えられるだけの農林水産業を充実させておくべき。現代の国内課題で医療の充実に比肩する課題は、これを置いてありません。

 そして、その手法も分かり切っています。

 ひとつ目は、たとえば沖縄では大東島で見られるような、機械を使った大規模農業です。人口の少ない大東島ではもともと機械を使った農業が盛んでした。

 ふたつ目は、家業制ではなく、農業生産法人を主体とした法人農業です。個人のチカラに頼るのではなく、中間で農産物や農薬からマージンを搾取する農協などは無くしてしまって、経営のプロが経営をし、農業のプロが社員として農業を請け負う法人制で、国内の農業全体を再編していくということです。

 もちろん課題は、気象に左右されにくい農業をいかに実現するか、ということです。

あれ? いつの間にか話が農業だけに絞られてしまっていますね。

 しかし農林水産業全体に言えることです。

 人口減少のなかで、いかに機械を使えるか、そして法人として安定させいけるか、気象天候に左右されにくい生産体制を築けるか。

 以前からの問題と認識しているのか、いないのか。お米は減反が進むばかりで、休耕地は増えるばかり。

 大事なことなので何度も言いますが、これからは農林水産業です。

 個人的には今から転職するつもりは微塵もありませんが、これからも農林水産業は応援していきます。

 いやまあ、詮無いことなんですけどね。

五言目 OKINAWA LIVES MATTER

生きている人の話なのよ。

 世界のみなさま。おはこんばんちは、光爾(ひかりに)です。

 沖縄は政治ですか。

 いきなりでスミマセン。

 今朝の朝刊(ある新聞社は世間を騒がせておりますが)にて、人口3~4万人ほどの町の町長選挙の結果が掲載されていました。「オール沖縄勢力、敗れる」という主旨で。

 うむー。

 誰が勝った負けた、勢力が勝った負けた、ということより、その選挙の結果がその町で生きる人々にとっては良いのか悪いのか。そういう尺度では判断されないものなのですかね。ま、どちらも新人だったので良いか悪いかの判断もしづらいのかもしれませんが。

 町民のみなさんも、ある意味で賭けに近いのですかね。新人同士の選挙だと。

 沖縄はよく政治で語られますけど、そこに生きている人々のことを思えば、政治は何のために生まれたのか、原点に帰ることは難しくないはず。

 昔、保守か革新かで語られた表現が、保守かオール沖縄かで色分けされるようになってしまったけれど、保守とか革新とかオール沖縄とか関係なく、ただひたすら安寧に暮らしたいなとか、子どもたちが安心して生きられる社会であってほしいなとか、野菜の値段が安くなってほしいなとか、洗濯物が乾かないから明日くらいは晴れてほしいなとか、そういうことを考えている人たちは、何派になるのでしょうか。

 その人たちも、何らかの派に加わっていないといけないのでしょうか。

 OKINAWA LIVES MATTER.

 沖縄県民(出身に関係なく、沖縄県内で生きている人たち)の生命の問題だ。

 基地がどうのという話でも、殺人事件がどうのという話でも、リアルに傷ついたりするのは沖縄県内で生きている人なわけで。政治屋さんではありません。

 だから、沖縄のことも政治ではないのです。人間の営みです。暮らし。

 アベノミクスの次はスガノミクス。新聞に書いてありましたけど。それは国民の暮らしに役立つのでしょうね?

 JAPAN LIVES MATTER.

 気がつけば、日本国民全員の生命の問題。に、なっていたりしないように祈っています。「ものまうす」は、ただの祈りであり、願いなのですな。

 詮無きことではありません、ほんとに。

四言目 BLACK LIVES MATTER

え? カツカレーとかやめてください。

 大坂なおみ選手がテニスの全米選手権で優勝しました。

 コートへの入退場に着用していたマスクに記された名前。黒人差別により生命を落とした人たちの名前。そこに込められた願い。

  BLACK LIVES MATTER(ブラック ライブズ マター)を、あなたはどう理解しますか? 黒人全体の生命に関わる問題。わたしは単純にそう捉えています。それだけでも充分な意味を持つ。

 ただそこに生まれただけなのに、生命の危険を感じながら生きなければならない。これが彼の国における事実のひとつ。

 区別と差別。

 その人。

 その人を外見で判断する。見た目で判断する。学歴で判断する。服装で判断する。容姿で判断する。年齢で判断する。性別で判断する。生まれた場所で判断する。育った場所で判断する。人種で判断する。

 その人。

 その人は、どんな人?

 その人は何を思い、何を話し、どのように生きていたか。

 わたしはせめても、目を開いて、耳を傾けていよう。

 その人が、どんな人かを理解するために。

 これはただの、人としての思いだ。

二言目「ものまうすな人(わたし)」

誰が言ったか? そんな馬鹿な。

世界のみなさま、おはようございます。もしくはおはこんばんちは。「ものまうす おきなはからに」の光爾ケイト(ひかりに・けいと)です。

 わたしは沖縄に生まれて、そして生きています。ちょいちょい世界から飛び出しては記した自分の見聞を追々語ることもあるでしょうが、この「ものまうす」では、沖縄から見た沖縄、日本国、日本のほかの地域、あるいはアジア、広がれば世界というマクロな話題から、隣近所にありそうなミクロなネタまで拾って触れていきます。

 コトバにチカラがあるのか、わたしには分かりません。

 昔、こういうことがありました。

 ある小学校で、チームごとに1枚の地図をもって、ある地点からある地点に移動するオリエンテーリングをやっていたときのこと。

 あるチームには学級委員長で成績トップクラスのAくんがいて、優勝候補だと言われていました。先生はほかのチームにもなるべく平等にクラスメートを分けていましたが、特にAくんは学業の成績だけではなく、筋道立てて物事を考えることでも周囲に知られていましたから、オリエンテーリングは彼のいるチームが優勝候補と言われたのです。

 さて蓋を開けてみたら、Aくんのチームは道をロストしてしまい、チェックポイントから大きく外れたところで探しに来た先生に発見され、最下位どころか時間外到着となってしまったのでした。

 チームメイトはAくんを頼り、Aくんもまた自分を疑うことなく進み、ゴール近くのチェックポイントまではAくんチームが断トツのトップタイムを叩き出していました。が、ゴール手前の分かれ道で、地図を読み間違えたAくんの指示により、チームはコースから外れてしまったのです。

 何度かチームメイトは言いました。いくら何でも1㎞もずれるはずがない。分かれ道まで戻ろうと。しかしAくんは頑なに譲りません。この地図に書かれている道の太さと、あの分かれ道の太さとでは、全く合っていない。もうすぐ道の太さが合致する分かれ道があるはずだと。

 そうです。学業優秀で、地図上の道の太さは実際の道路幅に比例していることを知っていたAくんは、先生が書いた手書きの地図の道の太さもそのようになっているはずだと誤解して道の選択を誤ったうえ、分かれ道まで戻ろうと言うチームメイトの意見を押しのけて、歩いていたのです。

「誰がどう考えても、あの分かれ道は左だったよな」

あとでチームメイトは口々に言いました。でも、Aくんにとって、あの分かれ道は地図とは全く合致しない道でした。

 誰のミステイクかと問うなら、もちろんAくんのミステイクであり、Aくんの意見を通したチームメイトのミステイクでもあり、もしかしたら道路の太さを微妙に書いてしまった先生のミステイクかもしれません。

 しかし、ここでのポイントは「コトバのチカラ」なのです。

学級委員長で成績優秀なAくんのコトバのチカラは、チームメイトには「Aくんが間違うはずがない」というイメージを与えており、チームメイトは自分自身の考えよりもAくんの意見を優先してしまった。

だけではなく、Aくん自身は自分の考えが最善であり、ほかの人間の考えや発言が、自分より正しいはずがないと考えてはいなかったか。考えていたから、チームメイトのコトバを信じなかったのではないか。

 はい、お察しの通り、Aくんは小学生時代のわたくしヒカリニです。

 「自分が正しくないかもしれない」という思いを初めて味わったあのときから今でも、わたしが大切にしていることのひとつは「まず自分を疑え」です。苦笑

 コトバにチカラがあるのか、わたしには分かりません。

 ただひとつ、言えること。

 コトバとは「誰が言ったのかではなく、何を言っているのか」なのです。

 誰が言ったかではなく、何を言っているか。小学1年生のコトバが的を射ていることは往々にしてあることです。

 政治家のおっさんが、何の意味もない空論をテレビで垂れ流していることも往々にしてあることです。

 そういうところを間違えない人でありたい。そう切に願う、ものまうす人(わたし)ではあります。

 ではまた次回。

初めまして、世界。

「ものまうす」を始めます。

世界のみなさま、こんばんは! あるいは、こんにちは! もしかしたら、おはようございます!

日本語以外で話しかけられない(外国語ができない)わたしが残念ですが、今日から始まる「ものまうす おきなはからに」、光爾ケイト(ひかりに・けいと)と申します。

これから世界に何かを物申していきたい。何のチカラもないけれど、黙ってうつむくのではなく、視線を上げて問いかけていきたい。

そんな考えで、この「ものまうす おきなはからに」を立ち上げます。

今日から始めますが、過去にやっていたブログ記事からの修正・加筆・天才転載も掲載していく予定です。

などと、初回を終わりかけておいて自己紹介に行きますが、・・・というペンネーム以外に紹介できること……。

父は離島出身です。まるでハーフのような顔つきをしていたのを憶えています。

おかげさまでわたしもインド人あたりに間違えられたりすることもあり、日本人に英語で話しかけられた経験があったりします。

母は沖縄本島出身です。福々しい外見とはウラハラに、直言の過ぎる性格で周囲はドン引きです。

ハーフのような顔つきの父のルーツも、直言の過ぎる母のルーツも、実はそんなに深くは知りません。地域では割りと有名なルーツですが、わたし自身は家系図が存在するかどうかすら知りません。母方の祖父は割と名の知れた名士でありましたが、すでに鬼籍の人ですし、彼のコネクションは頼るまいと心に決めておりましたので、親戚筋からはハミダシモノなイメージでしょうね。

その親戚筋はかなりオジイに群がっておりましたけど。苦笑

いや、追って話せることもあるかもしれませんが、後から設定違いが起きると怖いのでこの辺りで留めておきます。

では、これから、どうぞご贔屓くださいますよう。

「ものまうす おきなはからに」、光爾ケイト(ひかりに・けいと)でした。

ではまた。